1954年に第5福竜丸の乗組員たちが操業中にビキニ環礁で行われていたアメリカの極秘の原水爆実験により被爆した。2週間の航海を経て日本に辿り着いた乗組員の健康状態は優れず、一人は一年を待たずとして命を落とした。この事件は報道され、国民の知るところとなり、被爆した乗組員への同情と原水爆実験で汚染された魚など食料汚染への恐怖などに日本中が慄いた。
そして、日本人は立ち上がった。主婦たちが各地で始めた反核のための署名運動は大きなうねりとなった。3000万人の日本人が署名した。当時の成人人口の7割だ。
2011年3月12日の福島第一で爆発事故の後、あまりにも福島県民らの健康に無頓着で、政府の『風評被害』キャンペーンに見事に乗った最近の日本人と大違いだ。1954年の日本と今の日本、何が変わってしまったのか。
まずは、以下のドキュメンタリー『3000万の署名、大国を揺るがす ~第五福竜丸が伝えた核の恐怖~ 【そのとき歴史が動いた】』をみていただきたい。
ドキュメンタリーにでてくる女性たちの言葉の中で、非常に強烈に訴えてくるものがある。
一つ目は、ことの発端となった最初の投書だ。この主婦は「仕方ないといいながら何もしない夫の無力な諦めを私は軽蔑した」と書いた。多くの男達は今も昔も、諦めが早かったようだ。これを大人のものわかり、と思い込んでいたのであろう。ところが、この投書の妻は、夫の「大人の常識」が「無力な諦め」であることを見ぬき、そして「軽蔑」した。当時の日本の男尊女卑で、女は三歩下がってという社会状況を考えると、この女性がいかに、「無力な諦め」を「自分はしない」と決意したかの思いが伝わってくる。
二つめは、名前を書くことにいったいどんな意味があるのか?と問われたときのある女性の返事。、「黙っているよりはるかに効果があります。沈黙 は賛成を意味するからです。」
ドキュメンタリーを見ると良くわかるが、当時のお母さんたちは、戦争と敗戦という辛苦を生き延び、やっと戻ってきた幸せを、今度は簡単に手放すまい、男たちにだ け任せては置けない、と立ちあがったのだ。戦前も戦中も、女の意見なんて誰も耳を貸さなかったし、女たち自身も声を上げてもいいとも思わなかった。ところ が、戦後の民主主義は女性たちにも選挙権・被選挙権を与え、その市民としての権利を行使しようとした戦後の母たちの姿には感動を覚える。戦後一回目の選挙で、女性たちが老いも若きも大挙して投票所に足を運び、初めての一票を投じた。市川房枝など女性の議員も誕生した。そして、この普通の女性たちは一票を投じるだけでなく、民主主義とは黙って諦めないことだ、と学んでいた。
反核運動の大きなうねりは単に女性たちの力だけでは実現しえなかった。第五福竜丸の被爆事件のあと、普通のお母さんたちが立ち上がるが、その時、実は新聞というメディアが大きな役割を果たしている。当時の日本でメディ アといえばテレビではなく、新聞であった。(テレビの普及は東京オリンピック以降である。この当時はまだ民放テレビもなかった。)
新聞の投書欄へのある主婦の投書が発端になり、署名活動が始まる。いわば、投書欄がソーシャル・メディアとして機能した好例だといえる。 フェイスブックやTwitterと違い、新聞社の担当者が投書を選別しているわけだが、このときの日本の新聞(多分朝日であろう)では、反核運動につなが る投書を排斥するような ことをしなかった。むしろ、新聞の後押しで、草の根の運動が沸き起こり、労働組合をも巻き込んでいく。
なぜ、日本人は変わったのか、という問いに戻ろう。
こ の当時の日本は、ちょうどアメリカによる占領も終わり、それによりメディアの検閲も終わった時期である。右派左派の社会党が合同して、その勢いが増さんと する時代だった。当時の日本では社会党が農民の動員にも成功し始め、20世紀後半の日本が保守独裁体制になるとは誰も考えもしていなかった。保守合同による自民党の誕生と、冷戦という文脈の中でアメリカが日本の保守政党に本格的に梃入れし始める前の話である。
皮肉なことに、第5福竜丸被爆事件で盛りあった市民運動はアメリカ政府にとっては頭痛のタネとなり、アメリカが対日世論工作を強化する理由となる。
もともと占領期には完全な情報統制が布かれていたために、一般の日本国民は広島・長崎の原爆の被害についても詳しくは知らないほどであった。ところが、ちょうどアメリカのトルーマン大統領が国連で核の平和利用(”Atoms for Peace”)を訴えた翌年に、第五福竜丸の被爆、日本での反核運動の大規模動員がおこる。Atoms for Peaceへのリンクはここをクリック。
核の平和利用つまり、原発の普及は、アメリカにとっては軍事的に必要な、冷戦上の大きなコマの一つであった。原発を西側で普及さえることを重要視していたアメリカにとって、日本への原発導入を不可能にするような国民の核エネルギーななんとしても排斥せねばならなかった。
アメリカの要請に答えるかのように、日本国内にも、原発支持派、世論工作賛成派が存在していた。読売新聞の社主であり、日本の原子力の父と呼ばれる正力松太郎がこの典型だ。彼は、アメリカ政府の日本の世論工作を担うことで経済的利益(初の民放テレビ局の設置)と政治的利益(日本国総理の座)を狙っていた。彼が如何にCIAと協力して、日本国内の世論工作に読売新聞と日本テレビを活用したかについては、既に色々と紹介されている。(有馬哲夫の『原発・正力・CIA』 など。)
ここで重要なのは、戦後に普及したテレビというものが世論形成のためのツールとして、最初から意識されて導入されたこと。そして、これが日本に特別なことではなく、アメリカ国内でもそうであったこと。冷戦の構図の中では、単なる商品宣伝のみならず、国民が社会主義に傾倒しないようにするという政治的ミッションを帯びたものであったことだ。
実際、読売の正力による世論工作は功を奏し、1950年代に高まった反核運動をいとも簡単に乗り越えて、日本は原発の国へと転身していく。
この日本の転身は、単にテレビによってもたらされたのではない。会社レベルでの労組の懐柔と、アメリカによる日本の保守政党への本格的支援なくしては起こりえなかった。
先述したように1950年代は日本の左翼政党の躍進の時代だった。左派社会党と右派社会党が合同した際に、財界が非常な危機感を持ち、財界の大物らに促されて、保守合同が起こり、1955年の自民党結党へと展開する。冷戦という文脈において、日本が左傾化しないことは、アメリカにとって非常に大切なことであり、米政府と自民党は密接な関係を結びながら、政治から左翼を排斥していく。1960年の選挙で社会党が農村で票を伸ばすと、自民党は農業の合理化政策を翻して、米価操作による農家への所得保障をすることで農村票を買収していく。選挙のあり方にせよ、自民党に都合のよいようにしていくわけだが、保守政権存続のためであれば、アメリカ政府も問題視しなかった。
アメリカのようにあからさまな赤狩りは行われなかったが、日本では地位やお金での買収による「静かな赤狩り」が着々と進んでいった。企業組合の指導者が管理職に昇進するパターンなどは地位と金による買収の好例だ。
1960年代末から1970年代に入っては、公害問題を始め、経済発展の 歪み、自民党の利益誘導政治への反感から、革新自治体が誕生し始める。中央政府からの交付金に依存する自治体は簡単に御することができた保守勢力も、潤沢な税収のある都市部の自治体には手を焼いた。東京都での美濃部知事誕生に対して、保守派は非常な危機感を持ち、TOKYO作戦という革新自治体の撲滅キャンペーンを張った。これも簡単にウィキピディアから紹介しよう。(TOKYO作戦についてはここをクリック。)
1974年の田中角栄内閣当時、革新自治体に不快感を抱いていた自治省が企画し、5年ほどかけて大規模な革新自治体を潰していく作戦。T.O.K.Y.Oとは、T=東京都(美濃部亮吉知事)、O=大阪府(黒田了一知事)、K=京都府(蜷川虎三知事)、Y=横浜市(飛鳥田一雄市長)、O=沖縄県(屋良朝苗知事)の5革新自治体であり、最終目標はその頂点に位置する東京都知事のポストを保守陣営が奪還することにあった。この時期、オイルショックとスタグフレーションにより国も地方も財政が逼迫していたが、自治省は革新自治体に対してのみ批判的なキャンペーンを多くのマスコミを動員して行った。とくにサンケイ新聞は記事の行間に「行革に反対する議員を落選させよう」などのスローガンを挿入するなど、革新自治体批判の記事の多さや激しさで際立ったが、批判の嚆矢は1975年1月22日の朝日新聞の社説「行き詰まった東京都の財政」で、都が放漫財政を行って人件費を乱費した上、福祉予算を膨張させたために都財政が逼迫したと批判したことにあるといわれる。結果的にこのアンチ革新自治体のキャンペーンは国民に浸透し、自治省が企んだ「T.O.K.Y.O作戦」は1979年東京都知事選挙において、元内閣官房副長官の鈴木俊一が革新陣営が擁立した総評議長の太田薫らを破り、都知事の座を保守陣営が奪還したことにより結実した。
つまり、 日本では冷戦という名のもとに似非民主主義が蔓延った。これはやはり冷戦下で民主化したイタリアも日本と全く同じである。
冷戦が終わる1980年代後半にはすでに保守政治家、官僚と準公的産業の結びつきが日本をしっかり牛耳っていた。議会政治は根付く間もなく形骸化されてしまっていたし、大体抵抗できる野党自体存在しなかった。この支配層は冷戦が終わったからといって、その権益を守る政治制度を変革するつもりはさらさらなかった。
それどころか、デタントの時代であった1980年代に日本社会の保守化が深化した。 このとき、保守派はどういう戦略をとったのか?私は、朝日などの「左派」メディア幹部の買収と暴力により脅しだったと見ている。
まず、金による買収から見ていこう。『現代ビジネス』のオンライン版に「最大のタブー:東電マネーと朝日新聞」という8月22日付けの記事がある。これをみると、ちょうど1980年代前半あたりに、東電が甘い汁を餌に大物朝日OBを買収し始めたことがわかる。ちょうど官僚の天下りのように、朝日幹部OBだ吸える汁にしておくことで、現役幹部の行動を制する戦略だ。日本の大組織は、往々にして、個人的な仕事の資質とは関係なく、組織内政治に長けている人が幹部に昇進する。こういう人たちにとっては長いものに巻かれるのはお手のものだ。しかも、甘い汁つきとなれば尚更だ。
さらに、日本ではテレビと新聞がクロスオーナーシップ(株の相互所有により強い結びつき)により系列化しており、東電を始め大広告主の意向に敏感である。1980年代には、テレビの神様とも呼ばれた日本テレビの高木社長らが、テレビ広告の売り方を変革した。これにより、今ではお馴染みのテレビCM市場が活性化するとともに視聴率至上主義が蔓延りはじめる。政治的な帰結としては、報道としてのテレビの劣化のみならず、クロスオーナーシップの新聞にまで及ぶ広告主の意向の影響力の増大だった。その影響力の行使には電通が元締めとして活躍する。そして、電通は自民党・政府の選挙キャンペーンと広告を仕切る、いわば保守の宣伝塔司令室でもあった。こういった体制が、中道左派の朝日新聞にとってはかなり手ごわいものであったことは明白だ。
さらに、日本の場合は暴力もあった。驚くべきことに、1980年代には朝日新聞社への襲撃事件が相次いだ。ウィキピディアからの引用を紹介すると (朝日新聞社への襲撃事件をクリック):
朝日新聞東京本社襲撃事件
1987年1月24日午後9時頃、朝日新聞東京本社の二階窓ガラスに散弾が二発撃ち込まれた。
その後、「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」を名乗って犯行声明が出された。声明には、「われわれは日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊である 一月二十四日の朝日新聞社への行動はその一歩である」として、「反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない」とあった。
朝日新聞阪神支局襲撃事件
1987年5月3日の憲法記念日、午後8時15分、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に、散弾銃を持った男が侵入。2階編集室にいた29歳記者と42歳記者に向け発砲。29歳記者が翌5月4日に死亡(殉職により記者のまま次長待遇昇格)、42歳記者は右手の小指と薬指を失う。
5月6日、時事通信社と共同通信社の両社に、「赤報隊 一同」を名乗る犯行声明が届く。1月の朝日新聞東京本社銃撃も明らかにし、「われわれは本気である。すべての朝日社員に死刑を言いわたす」「反日分子には極刑あるのみである」と殺意をむき出しにした犯行声明であった。
朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
1987年9月14日午後6時45分ごろ、名古屋市東区新出来にある朝日新聞名古屋本社の単身寮が銃撃された。無人の居間兼食堂と西隣のマンション外壁に一発ずつ発砲した。
その後、「反日朝日は五十年前にかえれ」と戦後の民主主義体制への敵意を示す犯行声明文が送りつけられた。
朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
1988年3月11日、静岡市追手町の朝日新聞静岡支局の駐車場に、何者かが時限発火装置付きのピース缶爆弾を仕掛けた。翌日、紙袋に入った爆弾が発見され、この事件は未遂に終わった。
犯行声明では「日本を愛する同志は 朝日 毎日 東京などの反日マスコミをできる方法で処罰していこう」と朝日新聞社だけでなく毎日新聞社や中日新聞東京本社(東京新聞)も標的にする旨が記されていた。しかし、実際に毎日・中日の2社を対象とした事件はなかった。
イタリアでも全く同じような事態が発生していた。冷戦にかこつけて、カトリック教会を基軸に築かれたイタリアの中央政権レベルでの保守独裁体制も80年代に冷戦の終わりという危機に見舞われた。日本と同じように、暴力により権益の死守戦が起こる。少なくともイタリアではConstitutional Crisis=法治国家として根幹の危機であるという正しい理解がなされたし、大規模な抗議運動も起こった。日本では、新聞に対してのあからさまな暴力による言論鎮圧に対して、国民は沈黙を保った。
つまり、昭和という時代の終わりは、日本の民主主義が完敗することで閉じたのだ。
平成へと暦が開け、ベルリンの壁も崩壊したが、日本の民主主義の芽は摘まれたままになった。冷戦の終わりを契機に、やはり日本の議会政治を正常化させねばならない、と考えて政治家は存在した。金丸信もその一人である。あまり、公になっていないが、昭和から平成に代わった時点で自民党の中で日本の民主主義を巡る政治的な攻防があったのだ。金丸は国会対策のドンとして、日本の議会政治の嘘を誰よりも良く知っていた人物だ。日本を共産主義から守るという大義名分のものに良しとしてきた悪しき慣習も、共産主義の脅威がなくなった今、一掃すべきだと金丸は考えるにいたる。
この結果、金丸は政治資金法違反と脱税容疑で2回逮捕され、失脚する。このとき、金丸宅に金の延べ棒が隠されていた云々と大きく報道されたが、私が個人的に当時の金丸番の記者をしていた人物に聞いたところによると、報道で書かれていた金丸邸の間取りと実際は違ったという。おそらく政府側のリークどおりに記事にしたために実際とは違った点がでてきてしまったのであろう。
金丸が当時応援していたのは、日本にも米国のC‐SPANのような国会テレビ中継チャンネルをつくることで、議会内での議論を活発化させようという試みだった。ちょうどケーブルテレビ法案を準備していた郵政省も乗り気だったが、日本に真の民主主義が誕生しては困る既得権益組みが潰しにかかる。田中良紹は、政治家でこの先鋒にたったのが中曽根康弘だったと、その著書『裏支配』に書いている。
この当時の改革派と守旧派の攻防は、日本政治の縮図だ。経産省内での電力自由化派と電力会社・原発推進派の攻防と構図がそっくりである。日本国民にとって、悲しいことに、改革派はいつも敗れる運命にある。これは、改革派の闘う相手が、頭のない化け物だからだ。
こうしてみていくと、大改革を掲げて政権交代を果たした民主党が敢え無く自民党化していっているのも、単に民主党のリーダー達の力不足とはいえないことを意味している。 戦後日本で育った頭のない化け物は、選挙や政権交代なんていう甘ちょろいことでは退治できないのである。それこそ、大物政治家、経済人、言論界が命をかけて闘わねばならない。その心意気のあり、力量のあるリーダーたちが果たして今日の日本に存在するのかどうかに全てがかかっている。